今日はあるイベントの取材のため一日外出していた。
帰りの電車に揺られている。
帰宅時間に重なり、車内は混んでいた。
乗客の顔には疲労の跡が見える。
おおよそ携帯を手にするか、目をつむっているかどちらかに分けられるようだ。
つり革の白い輪っかに手を突っ込みながら、
ぐったりとぶら下がっている者もいる。
首を垂れたその姿は、まるで警察に捕まっているようだ。
これが至って普通の日常なのだ。
外の風景に目をやる。木々が横にうねっている。風が強い。
木々社会は風に腹を立てることなどないのだろうか。
人間社会では寒いだけで腹を立てているというのに。
速く温かいコーヒーでも飲もう。
最寄り駅に到着し、足早に自宅を目指す。残念ながら向かい風だ。
おぉぉと声が漏れる。身体を最大限に収縮し、最短ルートを通っていく。
マンションの階段を上るあたりからポケットに
手を突っ込み、鍵を探す。寒さが開錠を急がせるのだ。
あれ?
・・・ない。
もう一度探す。目でも確認する。ない。
鞄、スーツのポケット、胸ポケット、再び鞄、
見つからない。
鍵がない。
何処かで失くしてしまったのか。
思い出してみるが、心当たりはない。
いつもの場所に入れていたかの記憶も危うい。
取材の事で頭が一杯になっていた記憶しかでてこない。
今日通ってきた道を、腰をかがめて端から端まで見ながら戻る。
部屋の玄関ドアから最寄り駅に行くまでの道を捜索する。
風は追い風になったが全く嬉しくない。
どうやら無さそうだ。
焦りが募る。
駅に着いても下しか見ない。上を向いても仕方がないからだ。
確実に何かを落とした人、と思われている。それくらい隅々まで探した。
窓口の駅員に聞くと、この線路での落し物の鍵は9件あるという。
そのうち2件が今日の物らしい。
だがどれも青草の鍵ではない。
というか、青草を含めて今日3人も鍵を落としているという事実に驚きである。
この3人が集まったらいい酒が飲めるのではないか。
礼を言って、駅を出て、近くの交番に紛失届を行った。
また自宅までの道を捜索する。
今日一日のルートを辿る力はなかった。何事も諦めが肝心だ。
どうしたものか―――
スペアの鍵は家の中である。これは、管理人さんに連絡しなければ・・・
管理人さんか!
青草は少し喜んだ。が、同時に戸惑った。
今このタイミングで鍵を失くし、管理人さんに連絡をしたら、
あらぬ疑いを掛けられはしないかと思った。
昨日会ったばかりの今日である。
ただ連絡がしたい口実に鍵を失くしたと嘘をついたのではないか、
と思われても仕方ない。
ナンパな男とは思われたくない。
しかし、他に手段がない。
鍵を失くした自分が悪いのだ、と言い聞かせた。
マンションの入り口付近まで戻ってきた。
さらに丹念に下を見まわしたが、やはり奇跡は起こらなかった。
電話するか―――
そういえば、そもそも管理人さんの連絡先を知らなかった。
マンションの契約は不動産会社と行ったため、
連絡先を知っているのはそこだけである。
まずはそこに電話をかけ、管理人さんの連絡先を聞かなければならない。
肩を落とし、携帯をポケットから取り出そうとした時であった。
「どうかしました?」
身体がびくっと反応した。
振り向くと管理人さんの姿があった。
別の角度から奇跡が投げ込まれたのである。
「あぁ管理人さん!会いたかった!」
「え、私に?」
眉がくいっと上がった。驚いた顔も素敵だ。
「いや、あのそういう意味ではなくて。
まぁそういう意味もありましたけど」
すぐに機転を利かせて、相手への好意的な態度を匂わせる。
恥ずかしさが後を引かない様に間髪いれずに本題に入る。
「鍵を失くしてしまったんです」
青草は事の経緯を話した。
管理人さんは
「なんだ、そういうことですか。お安い御用です。
ちょっと待っててくださいね」
と言って、マンション奥に走っていった。
「走る」という何気ない行動が、彼女の性格の良さを覗かせる。
ひとまず安心した。
何とか部屋に入ることは出来そうだ。
鍵を失くしてしまった事はショックだが、会話が出来たのは少し嬉しかった。
程なくしてマスターキーを持ってきた。
二人は4階まで上がり、部屋の前までやってきた。
鍵を差し込み、ぐるりと回す。ガチャッという音が聞こえた。
「開きました!」
「助かった―、ありがとうございます」
二人は微笑みあった。
「良かったですね~
私も丁度帰るところだったので運が良かったですね」
「お手数お掛けしました」
「スペアのキーはお持ちですか?」
「はい、大丈夫です」
靴箱の扉を開け、棚の上の方を手で一応探ってみた。スペアのキーは確かにある。
青草は親指を立てグッドサインを示す。
「後の処理はこちらでやっておきますね」
「お願いします。そうだ、連絡先を教えていただけないでしょうか」
「あ、そうですね」
彼女は快く教えてくれた。二人は携帯電話を取り出し、連絡先を交換した。
「春野絵梨佳さん」
「はるの、えりかです・・・画数多めで困るんですよ」
「確かに。テストの名前を書くのに時間かかりますね。
でも素敵な名前です」
当たり障りのない会話が出来るようになったのは驚くほどの進歩である。
「これで失くしてもばっちり平気ですね」
「いやいやいや、本当にすみません。
次回失くす時も何卒よろしくお願いします」
「やめてください」
二人は冗談を言い合って笑った。
上がってお茶でも飲みませんか?
と言いだす勇気はなかった。
この場は綺麗に収める方が後々良好な関係を築ける、と判断した。
「本当にありがとうございました。
このお礼は必ずどこかで―――」
と言いかけた時、彼女の唇が開いた。
「あの、私のお願いも聞いてもらえませんか?」
「それは無理です」
青草はとぼけた顔をして即答した。
あまりにも早いお断りだったので彼女は笑った。
「いやいやいや、ちょっと断るの早すぎますって。
この流れでそれはひどい」
冗談が通じる娘で良かった。この手の笑いは人によって使い分けが必要である。
無論、本気で断るつもりなどなかった。
「すみません嘘です、私でよければ力になります」
「当たり前です」
食い気味で彼女は言った。二人はまた笑いあった。
「私、とあるサークルの運営をしているんです。
人生に悩んでいる人たちのために、月に一度開催しています。
やる気を育む、はじめの一歩のお手伝いっていうコンセプトで」
「ほう、それはまた殊勝な」
「そこで皆で悩みを話し合って、解決策を見出すんです。
中々良策は見つからないんですけど、話すだけでも心は軽くなるものです」
「悩み・・・ですか。私に何かできますかね?」
「沢山の人に来ていただきたいな、と思いまして。
そんなに堅苦しいものではありません。
お茶を飲みながら雑談するサークルだと思っていただいて結構です」
「ええ、行かせていただきます」
「日時と場所はまた今度連絡しますね」
そう言って、彼女は携帯を振り上げた。
「楽しみにしてます」
「ではこれで」
彼女はニコっと口角を上げて、ペコっと頭を下げた。
帰り際、階段を下りながら顔をこちらに向けた。
「あ、名前はAOの会っていいます。ローマ字でAとO。」
「え?」
風はまだ強く吹いていた。
去り姿を見た青草の眼はピントが合っていなかった。
彼女の明るく透き通った声はすぐに
暮れた曇天の彼方へと流されて、
AとOの文字だけが
寒さにこわばった皮膚に刺さっていた。