小悪魔ナイチンゲール

あるカフェバー。2階の窓際の席に二人は座った。
窓から下を覗くと小さな川が見える。
時刻は18時。川の傍に立ち並ぶ電灯が点き始める。
ぼやけた柔らかな明かりが小川に映り、ゆらゆら揺れる。
街が少しずつ大人の顔を見せ、お洒落な雰囲気を漂わせる。
駅からは徒歩5分くらいの場所だが、人通りは少ない。
店内は薄暗く落ち着いていて、お客さんは青草たちの他に4組ほど。
静かな夜を迎えられそうだ。
お茶を飲む予定であったが、
二人ともお腹が空いていたので食事もとることにした。
夕食という位置づけならば、お酒を飲むのもまた自然な運びであり、
青草はグラスのビール。絵梨佳は白のワインをそれぞれ頼んだ。

「改めて今日はありがとうございました」

「いえいえこちらこそ。誘ってくれてありがとう。
来る前は、怪しい壺でも買わされるのかなってドキドキしてましたけどね」

「そんな酷いことしませんよ」
耳元に光るピアスが優しく揺れる。
二人きりで食事をするなんて贅沢すぎるひとときである。

「もし私が壺を持ってきたら買ってくれます?」
絵梨佳はにこやかに尋ねる。

「んー壺によるかなぁ」
青草は目を細めて応えた。

「かなりカッコイイ壺。運気アップ。触り心地は最高」
彼女は抑揚をつけて演じるように畳み掛ける。

「うーんもう一声」
青草も眉間に皺を寄せてノリを合わせる。

「Wi-Fi付き」

青草は吹き出した。
「買った」

「いや駄目ですよ。ホイホイ捕まっちゃ。
壺ですよ?欲しいですか?」

「Wi-Fi付きなら仕方がない」
二人は笑いあった。

商売とは結局のところ、誰から買うかが問題なのかもしれない。
華やかさ、会話の持って行き方、行動力、
どれをとっても申し分ない絵梨佳がもしどこかの会社の営業に配属されたら
間違いなくナンバーワンになれるだろう。

店員が来て、ビールと白ワインをテーブルに並べた。

「お疲れさま」

二人はグラスの縁を軽く合わせる。
口元に運び、キラキラした液体を喉にすっと流し込む。
格別の美味しさであった。

「うん、美味しい」

絵梨佳は大きな目を輝かせた。
青草も頷く。

「しかし皆さん良い人たちで、話し易かったな」

「見た目、悩みなんてなさそうな人ばかりですからね」

「春野さんは何か悩みとかないんですか?」

「私は・・・悩みが尽きないことが悩みですね」
グラスを白く美しい手がそっと包みこむ。

「根っからの心配性なんですよ。今日も皆さん来てくれるかな、とか。
ちゃんと話せるかな、とか」

「行動力があるから羨ましい」

「あまり考えてないんですよ、きっと」

「そんなことないでしょう。行動しながら、考えてますよ。
それにその能力を他人の為に使っているなんて、
素敵だと思います。
なんだろう、ズルい」

「ズルいってなんですか」
微笑みながら唇をとがらせる。ほんのり紅く染めた頬。

「ズルい女」
「小悪魔って言ってください」

会話はついこの前会ったばかりとは思えないほど自然であった。
人間関係とはこんなにも早く深まっていくものだったろうか。
大人になるにつれて、
いつしか関係を築くことがとても難易度の高いものになっていた。
警戒心からか、自信の無さからか、
変化に対して億劫になってしまったからか。
そんな架空の理由をでっちあげては、繋がることを無意識に避けようとしてしまう。
時間をかけてお互いをよく見定めてからでないと始められない。
しかし、考えてみれば子供の頃はすぐに仲良くできた。
砂場で遊ぶ子。ふらっと隣に座る子。
「一緒に遊ぼう」「いいよー」
まるで合言葉のように。魔法の呪文のように。
良好な関係を築くのに、時間をかける必要はないのかもしれない。

「春野さんってお洒落ですよね」

今日の絵梨佳は淡いグリーンのニットに、白と青のアシンメトリーのスカートを合わせている。
ファッションの心得を知らぬ青草でも、
それが如何に卓越しているセンスなのかが分かる。

「ほんとに?嬉しい!ファッション大好きなんです」
右手で服の肩の端を引っ張って満面の笑みを浮かべる。

「今日の服も、初めて会った時の青のワンピースも良かった」

「あ、あれお気に入りなんです。
そうそう、そうやって褒めるの大事ですよ」

細長い人差し指が優しく空を切る。

「青草さんも素敵ですよね」

「いや俺はファッションには疎くて。
これもただネットのをそのままそっくり盗みました」

「泥棒だ」

「おっと人聞きの悪い」

「ここに泥棒がいます」

「小悪魔もね」

「むぅ」
二人は再び微笑みあった。

今この時間がとても楽しい。
どんなことにでも積極的になろうとしている自分が嬉しい。
青草は、「今」を好きになろうとしていた。

「さて、では次のお願いです」
絵梨佳は二回目の満面の笑みで青草を見る。

「ん?」
青草は目を丸くした。
「というと?」

「AOの会に中野さんという方がいます。私の右隣りに座っていた」

「あぁあのパンキッシュな女の子」

「彼女は今思い悩んでいます。手首にリストカットの跡が残っていました」
青草の背筋が一瞬で伸びる。
リストカット、とは自傷行為の一種で
血を見ることで、痛みを感じることで、
生を確認する行為である。
やり場のない心を落ち着かせる為に、方法がそれしか見当たらないのなら
危険な状態にある、と言って良いだろう。

「私は彼女が悩んでいるのを知っています。
でも、皆の前で発表することはありませんでした。
悩みを人に言えないというのは
それ程深刻な状態にあると言っていいと思います」

たしかに彼女は発表しなかった。
会話にも殆ど参加していなかったように見えた。
ただ、悩みがどうであれ、他人が勝手に詮索して
あれこれ手ほどきするのはいかがなものか。

「悩みはプライベートなものですからね。彼女から発信される前に、
周りがとやかく言う必要はないと思うのですが」

「そうなんです。だから困っているんです。
このまま彼女の傷が増えるのを黙って見ていたくないんです」

「・・・どうしろと?」

「まず、中野さんの悩みを聞いてあげてほしいんです。
自然に話しかけて聞き出してほしいんです」

「中野さん、お悩みありませんかって?」

「そうです」

「話してくれるかな」

「青草さん、お話聞くの得意でしょう?
私の話聞いてくれるくらいだから」

「それは、また別の話ですね」

「悩みって最終的には個人が解決する問題です。
でも、個人ではなかなか解決策を見出せない場合があります。
そんな時は支えてあげたいなって思うんです」

眼差しは真っすぐに青草の眼を捉えた。
天使の命令を断ることなど誰が出来ようか。

「分かった。ナイチンゲールな人だな、全く」
青草はため息をつきながら了承した。

「いいじゃないですか。ズルくて小悪魔なナイチンゲール」

「人が良いというか、お節介焼きというか」

「私、管理人ですから」
絵梨佳は上品な微笑みを見せた。
青草は、その言葉に何の違和感も覚えなかった。