青草の種

草賢治は、まだ悩んでいた。かれこれ2時間は経っていただろう。
なかなか筆が進まないのだ。いや、タイピングが進まない、というべきだろうか。
タイピングか・・・それもまたしっくりこない気がする。何と呼べばいいだろう。手が止まっている。考えが纏まらない。言葉が思い浮かばない。
キーボードの上に見つけたほんの少しの埃を指で拭き取る。よく見ると意外と汚れているものである。ティッシュペーパーを取り出し、丹念に掃除をしはじめる。
こうして思考は脱線していくのだ。どこまでもどこまでも。

今書いているテーマは「人は何の為に生きるのか」

青草はフリーのライターである。主にwebサイトに記事を出している。
当たり障りのない答えなら導き出せそうなものだが、それも面白くない。
折角なら自分で出した答えを掲載したい。
本当に自分でそう信じているものを、可能なら経験を交えて導いてみたい。
それがライターだ。と、格好ばかり付けている。
しかし、如何せん適当に生きてきた身である。
何の為に生きるのか、深く考えて来なかった。
決して考える機会がなかったわけではない。
その機会を、持ち前の軽さで躱しに躱してきたのを青草は知っている。
そしてその事を少し後悔していることも。
だからこそ、今回のテーマは絶好の機会であった。
此処を逃せば、今後も考える事はないだろう。

さて、自分は何の為に生きているのだろうか。
ノートパソコンが置いてある机の上に、自分がしてきた事や得意な分野をあえてアナログ的に紙に書いて並べてはみたものの、一向に思考が進まない。
自分を構成してきた要素がどうも有意義に思えない。
大した経験がないからか、自信がないからか、繋がりが無いからか。
過去の延長に目的を見つけることは無理なのか。
時代は変化している。過去の夢はもう消えた。
過去に信頼を置いていない以上、別のアプローチを仕掛けるべきか。
積み重ねてきた無駄なものは、机を散らかすくらいにしかならない。
そう思うと、中々寂しいものである。
椅子から立ち上がる。腰に手を当て、身体を後ろへ反らす。
ストレッチをして筋肉を緩ませ、溜まっているであろう血液を軽く流してみる。
立っていると部屋の景色が先刻と違って見える。
その差はわずかだが、そのわずかの情報が脳の停滞には大事なのである。
そしてまた椅子に座る。

なりたいもの?

特に見当たらない。尊敬する人は何人か挙げられるが、なりたい自分に繋がるかというと、そうではない。自分の理想像がそもそも掴めない。
子供の頃は沢山あった気がするが、何かと理由を付けては潰してきてしまった。
今のままで一生を終えるのは寂しい、と感じているのは確かである。

好きなもの?

勿論、音楽やテレビ、映画、スポーツ、小説、漫画、ゲーム等趣味はある。
が、無くても平気な程度である。
ノー○○、ノーライフにはならない。
娯楽のために生きる、という人間にはなれないようだ。
没頭できるタイプの人間を羨ましく思う。
服もほとんど買わないし、車は持っていない。
物欲もさほどない。そもそも欲求というものがあまり無いのかもしれない。

達成したいこと?

人生を価値あるものにすること―――

初めて欲求らしい言葉が出た。これだけは譲れないようだ。
では、自分の考える価値とは・・・価値・・・カチ・・・
ここでまた思考が止まる。

ただ生きていけば良いではないか。価値はその都度、見出せばよい。
生きるために生きる。食べるために生きる。
理想や大義を掲げなくても生きることは出来るだろう。
どうしても必要なら生きる事自体に価値を置き、死ぬまで生きること自体を目標に置けば良い。
と、違う思考がひょっこり顔を出す。同時にひょっこりはんのBGMが流れてくる。
確かに、そのように生きていた時もあった気がする。脳内BGMを振り払う。
しかし今の青草はそこまで割り切ることが出来なかった。
年を追うごとに、死に近づいている感覚は大きくなる。
生活も感情も変化はさほどなくなる。
過ぎ去った自分を思い出す事も増える。
となると、どうしても生に価値を与えたくなる。
自分に意味を与えたくなる。

置かれた紙をじっと見つめる。
書かれた文字がぺりぺりと剥がれ出してきて宙に舞う。
身体には空気が纏わりついて鬱陶しい。
今までの自分は何だったのか、と切ない感情が頭をよぎる。
何故こんなに迷っているのだろう、
何故もっと頑張ってこなかったのだろう、と。
今までの人生に果たして価値はあったのだろうか、と。
いけない。この思考は無駄だ。これからの話をしなければならない。
大丈夫だ、冷静さは失っていない。
青草はすぐに頭を切り替える。
鉄道のポイント切り替えのように正しくスムーズに行う。
この切り替えの能力を得ることができただけ今までの人生に価値はあったというべきだ。
過去の思い出に流されない様に、後悔の海に沈まない様に、
目に力を入れて文字を紙に戻す。
そして新たに文字を書き記す。

人は「人生に価値を与える為に」生きる。

進んだようで、進んでいない。
面倒なものだ。具体的な欲はないのに抽象的な欲にすがろうとするのだから。
この価値こそ、突き止めたいものなのだ。

数ある啓発本を見ても、ウェブサイトを見ても、
人生の目的は大概「幸せ」というものに帰着する。
人は幸せになるために生きるのだ、と。
それが一般的な答えであるとして、
青草は幸せがなんであるかを具体的にイメージすることが出来ない。

社会の為に力を尽くす事が幸せなのか?
組織の歯車になる大人たちを散々見せつけられてそう言えるのか?
他人から嫉妬される億万長者になる事が幸せなのか?
自己顕示欲で身を亡ぼす大人たちやそれを鼻で笑う人たちを見てきてそう言えるのか?
道端に咲くタンポポを見て、あぁ幸せだと感じるだろうか?
そのタンポポを見るために私は生きていけるのだろうか。

虚無主義極まる、実に卑屈な男である。
物事の悪い部分しか拾わない。
外面は軽快に装っていても案外中身はこんなものだ。
それも青草は自覚していた。
こんな事を言い出す奴とは友達になれないな、と呆れ笑った。
他人の為に働き、それに幸せを感じる。
あるいはふと舞い降りる偶然に奇跡を感じる。
小さな幸せを積み重ねて、次の世代へと人類の英知と心の豊かさを残していく・・・
頭では何となく理解している。だがどこか空想に感じてしまうのだ。

重さを感じる。そう、現実は重いのである。
重力というよりは、思い通りに行かない苦しさや圧迫感。
言葉も思考も吸い込まれる、どうしようもなくなる感覚。

悩みのブラックホールへようこそ―――

脳内で勝手に作られた「悩みたがりの何者か」が手招きをしている。
こいつとは思春期からの付き合い、つまり幼馴染だ。
いつも不必要に思考を止めようとする。
また悩み?つい先刻頭の中を切り替えたばかりなのに。
得てしてこういうものなのだ。
テレビドラマや小説なら何度も悩みが続くことは無い。
そんな事をしていては物語が進まないからである。
だが現実はどうだろう?
解決済みの悩みですら、また顔を出してくる。
その度に思考の回路を切り替えていくしかないのだ。

悩みは受け入れよう。ただ感情まで持っていかれる必要はない。
イライラはしない。冷静に努める。
青草は席を立ち、身体を無駄に動かした。部屋の中を行ったり来たりもしてみる。
酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出す。
そうやって人生を積み上げてきたのだ。
臆する事など何も無いのだ。
「つまらないやつだ」そう言って、彼はすっと消えた。気がする。
つまらない、か。
つまらない。
幼児がもつあの知的好奇心をどうにかして手に入れられないものか。
子供がもつあの科学的探究心を何とかしてもう一度手にできないものか。
あの情熱があれば、自分が望む価値を見つけられるような思いがした。
沸点がよほど高くなってしまったのか。
沸騰するまで待てるようになってしまったか。
沸騰させることを面倒だと思ってしまったのか。
いずれにせよ、今のままでは答えが出ない。

自分を変えたい。

この不必要に重い肉体を動かし、探すべきだ。
青草はスイッチを探した。かの有名な、やる〇スイッチである。
だがそのスイッチは見つからない。結果動かない。何も変わらない。
今度はスイッチを見つけるためのスイッチが必要になってくる。
探す。見当たらない。疲れる。へこむ。

全く、なんとも呑気な話である。
大半の人生はこうやって過ぎていくのだろう。

さて、大きく人生を変える方法は、近しい者の「死」である。
または予期せぬ「事件」。
日常から、不意に外れる感覚を味わうことで人生は思いの外大きく変わる。

青草の場合は、「青」だった。
偶然の「青」の重なりが少しずつ物語を推し進めることになる。
勿論、記事のテーマという些細な事象が、物語の幕開けであったことも事実である。