「何か考え事かな」
人の心、感情、意識の揺らぎというものは
幾ら無表情な人でも不意に出てきてしまうものだ。
とくに鏡花は物事に対する観察力や洞察力に長けていた。
変化を見逃さない。違和感を見逃さない。
生徒である新木文香の演奏は完全であったが、完璧とは程遠いところにあった。
「先生」
彼女は演奏を止めた。
しなやかなに伸びた10本の指を
白と黒の鍵盤から静かに離して膝元へ移す。
目線はまだその鍵盤にある。
だがどこか定まっていない。
いや、そもそも最初から何一つ定まっていなかったのかもしれない。
楽譜通り、間違いなく音は置いた。
しかし音色にはならない。音楽にはならない。
心に響いてこない。
「なんだい?」
彼女の背後に立っていた鏡花が応答した。
「私の心は腐っているのでしょうか」
「どうしてそう思うのかな」
「何を見ても、何を触っても、心が動かないんです。
こうしてピアノを弾いていても、ちっとも」
「飽きたのかもしれない。よくあることだ。
少し休憩しよう」
黙ったままの文香を見て、鏡花はさらに言った。
「心が飽和しているんだよ。
気分転換するといい。余地が無ければ、動くものも動かない」
「皆が大笑いして楽しんでいる時も、
誰かがいじめられて泣いていても動かないの。
すべてが遠くに見える。さも当然のように見える。
そしてそう思う私を、もっと遠くにいる私が嘲笑うの」
「それはそれでいいのかもしれないよ。達観しているともいえるね。
君は脳の処理速度がとても速い。
例えば、君は熱いと感じる前に、
熱さへの傾向と対策を全方位から考えているんだろう。
君の脳が完全を求めている」
「不感症なのかしら」
「不満なのかい」
「いいえ。ただ完全を求めるが故に
感性を失うのは納得いかないんです」
「君はまだ若い。
知らない世界が沢山あるはずだ。未開拓の世界がね。
結論を出すのはまだ早い」
新木文香は都内の私立高校に通っている。
容姿端麗かつ成績優秀で、先生や生徒からの人望も厚く、
運動、絵画、音楽、スピーチ等、何をさせても期待以上のものが返ってくる。
しかもそれ等は努力なしに達成されるものであった。
間違いなく誰もが憧れるような存在である。
華やかな高校生活といっても過言ではないだろうが、
彼女からしてみれば形骸化したルーティンでしかなかった。
「先生は何に心が動きますか?」
「心の臓はいつも動いているね」
「冗談はいりません」
「冗談でもない。いつも心は動いている。
君と話しているだけで心は動くよ」
彼女はため息をついた。
「思うんです。
自分がどうなるか分からないなんて
なんて不自由なんだろうって。
世界が思い通りにならないなんて
なんて理不尽なんだろうって。
不自由で理不尽な世界に感動ができますか?
あんまりです」
「君は詩人だね」
「私は生きる必要性を感じない」
文香は冷たく言い切った。
部屋はしんとしている。
時計が進める針だけが、静まり返ったこの部屋で唯一の音になった。
メトロノームのように、冷静に刻んでいる。
「君と私の思考は似ている。正直なんだ。自分の心に。
結論は真逆だけど」
そう言うと、鏡花は傍を離れて窓の方へ歩いていった。
「私はね、生きることに必要性はないと思っている。
だからこそ、生きたいという理由になるんじゃないかな」
「どういうことですか」
「水分は生きる為に必要な要素だ。
でもそれはもはや当然の事であって
誰もそこに価値を見出そうとはしない。
水分=必要の定義があるだけ。
同じように、命は必要な要素だ。
しかしそれは当然そうであるべきと定義され、
それ以後見向きもされない。
価値の対象から見放されている」
「もっと軽く考えろ、ということですか」
「いいや、生については適度な距離を置いて考えろ、という意味だ」
「それはつまり死んでもいいってこと?」
「必要性はない、とまでしか言わないよ。
いいかい。
君はいま、生に対して真実を与えようとしている。
取り巻く世界に対して真実を与えようとしている。
そしてその真実たちを全部背負おうとしている。
なんだって真実をぎっちり詰められなきゃいけないんだい?
一個一個に意味を付けていったら
世界はどんどん遅くなって
仕舞いには止まってしまうじゃないか。
物事が重すぎてぶつかってばかりになる。
それでは世界がかわいそうだろう」
「先生の方がよっぽど詩人だわ」
「私は詩人ではないよ。
知っているかい?詩人は安全なんだ」
不思議そうな顔をしている彼女に、
鏡花は人差し指で空中に円を描きながら続けた。
「心を動かすものなんて人それぞれだろう。
私を動かすものはね。
狂気だ。
狂気が原動力となる。
狂気は理由を必要としない。真実を必要としない。
自分に正直に動くことができる」
鏡花は本気である。
本気で狂気の力を信じている。
本能でもなく、理性でもない。因果関係も法則もない力。
完全を喰らう狂気の力。
イカれた思想を悠然と語るその瞳は、文香にはとても輝いて見えた。
「先生、抱いてください」
「無理だ」
「断るの早くないですか?」
彼女の口角がはじめて上がった。下瞼が緊張しているのが分かる。
「少しは心が動いたかい」
それはほんの一瞬の出来事であった。
彼女は立ち上がり、鏡花に強引に抱きつき
キスをした。
そのまま着ている制服を床に脱ぎ捨て、鏡花を求めた。
雪のような色白の腕は首を廻り、繊細な唇は乱暴に触れる。
息をする暇もない。
胸が当っているのが分かる。掛かる弾力と確かな重さ。
幼さを感じるはずだったその身体は、
なだらかな起伏を伴い、潤いと柔らかさで溢れていた。
ほのかに甘い香りがした。
目元は少し震えていて、平気を装う一生懸命さが可愛らしく見えた。
必死に大人になろうとしていたのかもしれない。
自分を変えようとしていたのかもしれない。
離そうと腕を掴むが、崩れそうなほどに柔らかく力を入れられない。
彼女は掴まれた腕をするりとほどき、下のほうへ向かった。
そして。
したたかに舐めた。
鏡花は彼女の内に秘められた熱量に驚いたが、微笑ましくも思った。
狂気を歓迎した。
冷静と情熱のあいだには何が生まれるのだろう、と考えた。
ぬるい、液体のようなものだろうか。
窓の外も、もう夜になろうとしていた。
***
「風邪を引かないように」
全てが済んだ後で、鏡花は乾いた声で言った。
「君は綺麗で純粋な心を持っている。ただ、こんな無茶は今後気を付けた方が良い」
「詩人は安全ってなんですか」
彼女の顔は、熱を抱えて生気が戻っていた。
その火照りをあえて抑えようとしているようにも見えた。
「詩人は想像して満足できる。行動には至らない。
私は行動する側。それも創る側ではなく、破壊する側」
「じゃあ私も詩人じゃないわ」
脱ぎ捨てた下着を身につける仕草が妙に艶っぽい。
「破壊も必要?」
「いま正に君は破壊したわけだが?」
肩を竦めオーバーな仕草をとって、笑みを浮かべた。
彼女も微笑んだ。
「サイクルに乗っけるだけだよ。
壊れれば創るだろう。
壊れない物をずっと持っていたら、
それに満足して中々先には進めないものだ。
古いものを壊すから、新しいものが生まれる。
技術も文明も生物も、壊さないことにははじまらない」
「変化や進歩のきっかけが破壊からしか生まれないとでも?」
「そんなことはない。ただ創る側よりも破壊する側は少ないだろう。
足りてないと思う側に加担しているというわけだ。
しかしまぁ、
ピロートークがこのような会話になる二人も少ないだろうね」
「でしょうね」
二人は笑いあった。
「私は、悪は素敵だと思うんだ」
「どうして?」
「自分の欲に忠実だ。
しかもそれを裡に秘めるだけじゃない。行動に移している。
ゲームだって、そうだ。
勇者は必要とされている。
けど勇者は悪がいないと成り立たない。
悪は自分の世界を創り出そうという志に忠実だ。
いつだって物語の始まりは悪にある」
「悪の組織でも作るおつもり?」
鏡花は再び人差し指で空中に円を描く。
「私はね、全てを0へ還したい。
そして新しい勇者が出てくるのを見てみたい」
「All 0ね」
「君の通信簿かな?」
「あら、私こう見えてAll 5です」
得意げに微笑んだ。
「私、先生の為なら死ねるかも」
「君が死んでも、私の心は動くだろうね」