黒い虫

鏡花はパソコンを閉じた。

つい先程まで、その“窓”を通じて
沢山の迷える人々に独自の理論を展開していた。

何も変わらない日常。
日常は平均的な一日。
変わったことが起きない、特筆すべき点がない一日。

何も変わらないこと、それが日常。

この日常を壊したくなる。

何か起きないか期待したくなる。
味気のない正の循環から外れたくなる。

そんな感情を抱いたことはないか?

台風が日本を直撃して来ないかと待ち望むような、
何処からか聞こえる救急車の音に心を躍らせるような。

もっと幻想的でもいい。

目が覚めたら私は虫になっていたとか、
空から誰かが降ってきてはくれまいか、とか。

人は退屈に耐えられない―――

ドアも窓も何もない真っ白な空間の中で、
同じ食事を同じ時間に同じように食べて、
生きていけるだろうか。
間違いなく精神に異常をきたすであろう。

人は刺激や興奮を求めるのだ。

たとえそれが血や痛みを伴うとしても。

求めずにはいられない。

見てみたくはないかい。
違う世界を。新しい朝を。
自分はどこまで進めるかを。

・・・

あぁ
黒い虫が、飛んできた。
全く予期せぬ黒い虫だ。
やがてそれは皮膚を食い破り、血液の中に入り込む。
血流は止まり、周りを腐らせていく。
何という事だろう。
その行く末を
優しく見届けてあげる。

・・・

朝の気配を感じ、
鏡花は白いベッドから体を起こし、寝室から出る。
リビングの机にあるリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。

どのチャンネルも同じニュースを
同じようなトーンで
同じようなフォントで報じている。

午前7時頃 新宿駅13番線で人身事故発生
午前7時頃 東京駅3番線で人身事故発生
午前7時頃 渋谷駅2番線で人身事故発生

三ヶ所同時刻人身事故―――

示された線路図は×印と赤に染まっている。

世界でもトップクラスの乗降客数を誇る三駅の同時刻機能停止。

はっきりとした原因はまだ分からないが、
飛び込み自殺を図ったもの、と推定された。

朝方という事もあり、駅は溢れんばかりの人々でごった返し

首都東京は大混乱に陥った。

血液は流れを妨げられ、行き場を失くし
込み上げる不安、悲しみと怒りは膨張し破裂する。

怒号。悲鳴。憎悪。落胆。

諦めはまた自分の寛大さを確認すると同時に、
この世界に対する非力さを再認識させる。

感情が生まれる。いつもとは違った景色。
燃えるような東京が画面の中に見えた。

燃えるような東京が。

テレビを消しても、騒がしい余韻がまだこの空気を漂っている。
この余韻を音楽に結び付けられるか試してみたが、失敗した。
どうやら朝には向かないようだ。

仕方なくカーテンを開けて窓から朝日を迎え入れた。
配慮のない眩しさに当てられて目が痛い。

空気が変わる。

太陽の強さを感じずにはいられなかった。

まったく
今日を告げる支配者は変わらずご機嫌麗しいようだ。