大聖堂と椅子と女

イプオルガンの音が鳴り響く大聖堂、その奥中央に大きな椅子がある。
その椅子は濁った金色をしていて、あたかも皇帝が座るような仰々しい光沢を纏っていた。
座布団はひかれていないし、クッションも無い。
人が座っても決して心地はよくないであろう。
ただ、その冷たさと固さは、座る資格のある者に必要な冷徹さを醸していた。

その女は、そこに座していた。

椅子の肘掛けに両の腕を寸分の狂いなく配置していた。
こちらが来るのが分かっていたように、彼女は微笑んだ。
チェックメイト、と言わんばかりの勝利を確信した含みが見えた。
その瞬間、降り注いでいた四角い音がすっと消えた。
妙に傲慢な圧迫感だけ残っていた。

「久しぶりね」

彼女の声はひんやりとした聖堂にさらに涼しく響いた。
「どう、調子は?」

青草は答えることが出来なかった。

何が起きているのか、自分で把握出来ていなかった。
何故此処にいるのか、どうやって此処に来たのか。
目の前にいる女には、身に覚えはない。
久しぶり、と言われる道理はない。

あなたは誰ですか?と聞く勇気もなかった。

聞いても良かったはずだ。本当に知らないのだから。だが聞けなかった。
いや、正確には「聞く」という選択肢を失っていた。
とても対等な立場ではないように感じられた。
何故だか自分がひどく小さく見えた。
声の出し方も忘れてしまったのだろうか。

彼女は椅子に座ったまま、しばらく青草を見ていた。
言葉を返すのを待っていた。身体を動かすのを待っていた。

聖堂内はとても広く、天井も高い。
体重の置き場を失ってしまったような、支えが無くなるような浮遊感を感じた。
この空間のすべてが、鋭い視線を送っている様であった。

沈黙が続いた。

ごくりと唾液をのんだ。
すると、ようやく青草は声を思い出した。
渇きが思考と声を塞いでいたらしい。

「あの・・・ここはどこでしょう?」

口から出てきた言葉は、彼女に対する返答ではなく、
この空間に対する質問だった。
そしてそれは、ただこの沈黙から逃れたいが為の
一つの台詞に近かった。

「どこでもいいわよ。あなたが都合の良い場所で解釈して」

再び沈黙がやってきた。何が何やら分からなかった。

青草が期待した返答ではなかった。

だが彼女にしてみれば、その質問こそ期待外れのものだったのかもしれない。

他の質問も考えた。
が、どうも間が悪い。
途切れ途切れに話していては、こちらが弱い立場である事を認めてしまう気がした。取り繕って話を作るのは危険であり面倒でもある。

電車の音が聞こえてきた。
ガタンゴトンと、かなり大きい。
教会の傍に電車が通っているのだろうか。そもそも教会かどうかも怪しい。

そのうち青草の中に何だか急に不安と憤りが内から込み上げてきた。

なんで私はこんなところにいるのだろう。

なんでこんなことになったのだろう。

なんて面倒なんだ。帰りたい。とにかく出よう。メリットなんて何もない。

次から次へと何者かが話しだす。

脳内はめでたく満員である。

「それがあなたの現状なのよ」

彼女は目を細め口角を上げて、蔑むように言い放った。

「あなたは、自分しか考えていない。自分の境遇しか考えていない。
私に対して興味がないの。目の前にいる私に対してすらね。
むしろ私のせいでここに連れて来られたと思っている」

急に胸が熱くなって、心拍数が上がった。突然彼女は青草を批判してきた。

「あなたは、周りを見ているようで、理解しているようで、実のところ全然見ていない。
自分のいる場所にだけ重きを置く人。自分は決して責任を負わない人。
自分以外の事に興味を持っていないか、或いは怖がっているか。
何かが自分に返ってくるのを恐れている。
面倒な事や都合の悪い事が起きれば、それが忘却の彼方に去るまで待つだけ」

いつものスルースキルは発動しなかった。
この手の批判は軽くいなしてきたはずだったが、何故か直接ぶつかってしまった。
初対面だからか、突然だからか。
その言葉に耐えかねて、青草は瞬きをしながら彼女の足元辺りに目を落とした。

目の前はぼんやりとしていた。
耳に音が詰まっている。
再び唾液を飲まざるを得なかった。

「ここはどこであるか?それしか見えていない。それを知ってもあなたは待つことしかできない。何かが動き出してくれるのを待つことしかできない」

青草は何も言えなかった。

何故こうも自分を否定されるのか理解できなかった。

ここでも、内容の理解や判断よりも先に、この境遇ないし理不尽に対しての怒りで頭の中をいっぱいにしてしまった。我ながらちっぽけな頭だ。冷静になれ。

「何か言うことはないの?」

ムカつく。

そんな汚い単語しか浮かばなかった。思考は機能していなかった。
当然言葉にはならなかった。

悲しいかな何故彼女にムカついているのか説明することもできない。
意味を忘れた語感だけが空回りしている。

「黙るのは結構。だけれども、自ら黙る選択をしたのではなく、黙る性質が身についてしまったら危険よ。喜びでも、悲しみでも、怒りでも、言葉にしなければいよいよあなたは自分を失うわ」

青草は厳しい顔つきのままに深く息を吐いた。

その勢いを借りて彼女の顔を強い力を持って睨みつけた。

目が合った。

彼女は大層美しかった。そして笑顔だった。

活力に溢れた表情。ただならぬ色気。凛とした佇まい。
相反するような性質を見事に兼ね備えていた。

何故今まで気が付かなかったのか。

怒りが、消えた。
何故怒っていたんだろう。

何故、という言葉ばかりがふらついている。

「私は、あなたの味方よ」

打ちのめされたのか、鼓舞されたのか。

青草はここでも言葉にならなかった。